行徳キリスト教会 Gyoutoku Christ Church

献身の証

弱さを通して整えられる御方

高校生の時にイエス・キリストに出会い、その後に献身への道に導かれた事を振り返る時、いくつかの段階があったように思います。大学の進路に迷った私は1年のプログラムで聖書を学びたいという思いから神学大学に入学しました。献身というよりは、純粋に聖書を学びたいという思いで入学したのですが、その年の大学内で行われた世界宣教大会の招きで神様に捕えられ、自分で握っていた人生のハンドルをイエス様に明け渡しますと献身の招きに応じました。1年だけと決めていた聖書の学びは継続し、そこで4年間の充実した聖書の学びが与えられました。しかし、聖書を深く学ぶほど、自分自身の中で示されていく弱さや葛藤があるのです。主の前に全てを明け渡していきたいと願いつつも、行動が伴っていない罪深い自分自身を知る中で、本当に自分は献身者として召されているのだろうかと自問自答が続きました。主の恵みを見失いそうな時、完全に正しく歩む者が献身者ではなく、キリストの恵みのゆえに欠けも弱さも委ねるからこそ、主が用いて下さるのだとペテロの再献身の箇所を通して教えられました。大学の最終学年になり、どのような形で献身するのか進路の道を祈り求めていた時、すでに献身者として教会に仕えていた姉が交通事故で天に召されました。大きな悲しみと失望と共に信仰が揺れました。一時期はそのまま献身を断念しようとさえ思いました。しかし、多くのとりなしの祈りがささげられる中で、信仰が回復し、姉の死を通して天の御国にこそ変わらぬ救いの希望がある事を教えられました。同時に「みことばを宣べ伝えなさい」というかき消す事ができないほどの強い思いが与えられました。神様は弱さや苦しみを通してご自身に従うものを整えられる御方です。その主の深い恵みとあわれみに感謝をささげます。